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河川生態系の保全・ダム問題

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2000.07.01

特集 川とつきあう 3 (昔の洪水、いまの水害)

会報『自然保護』No.448(2000年7・8月号)より転載


目次
1 洪水って何だろう
2 洪水がもたらす恵み
3 昔の洪水、いまの水害
4 “洪水を防ぐ” から ”洪水を減らす” へ

洪水といきものこんなふうに洪水とつきあってきた -球麿川で-
昔の洪水、いまの水害

 

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●洪水は年中行事のひとつだった

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▲人吉市の銭湯・新温泉のご主人、永見八郎さんは、脱衣所の柱に水位を印している。はるか高くに見えるのが、「七・三水害」の時のもの。戦後、人吉市で死者行方不明者を出した水害は、1954年、1963年、1964年、1965年、1971年、1972年、1979年、1982年(2回)と、60~70年代に集中している。 

 「子どものころから、家は毎年水に浸かってました。家には木でつくった棚が用意してあって、水の出具合を見て畳と床板を棚に上げ、その上にモノを載せて避難させたもんです」。熊本県人吉市内に生まれ育った重松隆敏さんの話だ。人吉市は球磨川中流域に広がる盆地で昔からの洪水常襲地帯。川べりに建つ昭和9年創業の人吉旅館主人、堀尾芳人さんも、「長い間の体験から、雨の降り方、川のようす、水の上がり方など見てどこまで水が来るか予測できました。”今回は床上”と予測すると1階客部屋の応接セットの上に畳・ふとん・テレビ・電話などを上げ、水位が下がり始めると箒で床の砂を掃き出しました。隅々まで掃除できる良さもありましたね」と話す。

人吉市の下流、球磨村はかつて増水で家が浸かることはなかった。「出水のときはにごすくいと言って、川岸に避げ込んでくるコイ、アユ、フナなんかを網ですくって捕るのが楽しみでした。ここらへんの田畑が遊水地みたいになっていた」と、村で生まれ育った山口義明さんは言う。

ほかにも何人もが、球磨川との”つきあい方”を話してくれた。共通しているのは、水位が上がるのも引くのもゆっくりだった、経験的にどの辺まで水位が上がるか予測できた、ゆえに、洪水への対処が可能で一種の年中行事のようになっていた、という点だ。大水が出ても人吉市上流一帯の農地が遊水地となり、川からあふれる水が一時溜まり、市街地での急激な増水が緩和されていた。堤防が二重になっていて水を一時的に遊ばせる霞堤(かすみてい)も利用された。かつてこの一帯を支配した相良藩は遊水地となる田畑は「免租地」としたとも聞く。

●ダムと河川改修で変質した洪水

記録によると、戦後、人吉市周辺で死者行方不明者を出した水害は、60年代と70年代に集中している。これは、球磨川上流に市房ダムができ(56年)、人吉市市街部に堤防が完成する(85年)までの期間にあたっている。

特集川とつきあう-5p.8.jpg ▲人吉市街や下流の球磨村では、あちこちの電柱に過去の洪水の水位が印されている。人吉市街と下流の球磨村では、河川整備の状況につれて、水位が逆転している。「昔の洪水は、ゆっくり引いていったので砂を掃き出す時間があったけど、最近のはあっという間に引くから、掃除も間に合わない。流れてくるのもダムに溜ったヘドロのような細かい土で、こびりついて取れなくなる」と語る人もいる。

この中で1965(昭和40)年7月3日未明の洪水は、家屋の損壊・流出1281、床上浸水2751という最大のものとなった。地元「人吉新聞」7月3日の号外は「3日午前2時半、警戒水位三米を越した球磨川のほん流は、ものすごい勢いで全市を襲い、市街地の大半をなめ」「水位はその後午前6時の五米・〇五(麓町測定、五米・〇五以上測定不能)」に達し、「人吉はじまって以来の被害をもたらした」と報じた。
のちに「七・三水害」と呼ばれるようになったこの洪水は、それまでと様相がまったく違った、と体験者の多くが証言する。『球磨川大水害体験録集』には、「何をする暇もなく、どっと水が押し寄せてきました。あわてて作業台の上へ原料・製品など積み上げました。とたんに台ごと浮き上がり、水の中へ横倒しに落ち込んでしまいました」「わずか2、3時間の間に3メートル以上の水位が上がったのは初めて」「またたく間に水位が上がり、川岸を越えて街路や家屋に浸入しました。天井を破って屋根に上がり助かったという恐ろしい体験をした人もいます。……増水の速度はこれまで経験したこともない速度でした」と、一様に従来と違った手の打ちようのない増水だったことを証言している。

「球磨川の計画洪水水位は5.12メートルだが、それが6.70メートルと、1.58メートルもオーバーした」(建設省九州地方建設局の当時の河川部長、西日本新聞、昭和40年7月5日)。洪水常襲地帯とはいえ人吉市のピーク流量は毎秒3000立方メートル前後だったのが、このとき少なくとも毎秒5000立方メートルという前代未聞のピーク流量に急激に見舞われて、洪水は「大水害」になった。このときの増水のさまを体験者は「津波のよう」「川が立ってきた」と表現する。人々が長年かけて確立してきた「洪水対処法」がまったく役に立たない洪水が出現したのだ。

 

●ダムが”凶器?”に変わるとき

未曾有の水害体験をした人たちは、「30~40分で2メートルも上がるような水はいったいどこから来たのか?」と疑問を投げかける。急増水の前に「市房ダムが放水されますので十分注意してください」という消防署の広報車の警告を聞いていることから、急増水は市房ダムの放水が原因だと体験者の多くが考え、河川管理者である建設省を長年にわたって追及してきたが、いまだに真相が明らかになっていない。

特集川とつきあう-7p-1.jpg▲「昔は泥まみれになった近所の人たちをただで入れたもんだ。今は洪水をみな忘れとる。かつて何度も水に浸かった人吉市の銭湯・新温泉の主人、永見八郎さん(76)夫妻。

国土問題研究会の上野鉄男さん(土木工学)は、「市房ダムの完成した昭和35年ころに行われた、人吉市上流部……の遊水地帯での河川改修にあることが明らか」(川辺川研究会発行『川辺川ダム計画の問題と求められる治水対策』)と見る。つまり「ダムによる洪水調節対策を中心に、河道の直線化等により洪水を速やかに河口まで流下させることを第一義としてきたが、その結果洪水流量を大きくし、被害発生時の危険性を増大させ」(右同)た可能性が考えられるという。

「洪水調節機能」がうたわれるダムが、むしろ”凶器”になる場合があるのだろうか。ダムが下流域で水害を引き起こす可能性について、九州大学名誉教授の平野宗夫さんは一般論として「決壊防止の目的で放流が行われるのは異常な洪水時であり、下流域ではすでに水害が発生していることが多い。その際、わずかの過放流でもそれに応じてダムがない場合より被害が増加する可能性はある」(「公共事業の個別事業内容・実施状況等に関する予備的調査(平成11年衆予調第3号)報告書」衆議院調査局)と述べている。被害者の体験からは、「七・三水害」はまさにそういう事態が起こったのではないかと考えさせられる。

●洪水との共生文化が薄れ

特集川とつきあう-6p.8.jpg▲球磨川上流の川辺川ダムのダムサイト予定地。クマタカの生息地への悪影響、水質の悪化といった自然保護上の問題が深刻であると同時に、利水の必要性も、治水の効果も、疑問視されている。

人吉市の洪水常襲地帯での洪水とのつきあい方も変わった。人吉旅館の堀尾さんは、「七・三水害」に遭ってからは「経験的に予測できなくなった」ため、市の洪水対策本部に1時間ごとに電話をし、ダム水位・流入量・放水量・球磨川水位・雨量(人吉・市房・白髪)を尋ねて対処している。各データをグラフにして並べてみたら、ダムの放水量と旅館1階浴場階段の水位とが時差2時間半で同じ山形曲線を描くことがわかった。そこから旅館での水位を予測する方法を確立した。「ダムは、下流に関係なくダムの水位を一定に保つために放水することがわかりました」と堀尾さんは言う。

人吉市市街部に堤防が完成した1985年以降、川が氾濫して起きる大きな水害は起きていない。しかし、今度は堤防内に水が溜まるようになり排水ポンプ場が整備された。入れ替わるように、それまでなかったすぐ下流域で洪水が増えた。下流に電力ダムが2つもつかえているのだ。

人吉の市民とくに水害体験者には、まずはダムありき、という考え方の治水に対する不信感が根強い。球磨川の上支流・川辺川に生き残る川辺川ダム計画に多くの市民が不安や恐怖心を抱くのは、ダムの限界からくる「つきあえない洪水」を知ってしまったからだろう。

  (保屋野初子)

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