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日本自然保護協会の歴史

Who We Are日本自然保護協会について

Since 1951

戦後復興の真っ只中の1951年。まだ環境省(庁)も存在しない当時、
日本自然保護協会(NACS-J)は、尾瀬ヶ原を守る運動をきっかけに
日本初の自然保護団体として誕生しました。

尾瀬の自然保護活動に見る、
日本自然保護協会の根幹

尾瀬ケ原の自然保護の歴史は1920年、地元・尾瀬の自然保護に取り組んできた平野長蔵氏が尾瀬沼一帯を景観保護のために風致保護林に編入するよう陳情したことに始まります。1927年には、のちの日本自然保護協会の発足メンバーである田村剛氏と武田久吉氏が尾瀬の調査を行い、その学術的価値を証明。この一連の活動は、現在まで受け継がれる日本自然保護協会の「地域の人とともにある自然保護」の根幹となっています。

1950年代

国や産業による資源開発が頻発した時代。これらに対し、学識経験者らが調査研究を基に、当時唯一の保護地域制度である国立公園の拡大運動を展開しました。日本自然保護協会は1951年、尾瀬ケ原を守る運動をきっかけに誕生しました。

1960年代

第二次産業の発展で公害問題が顕在化し、スーパー林道の建設などによる国立公園の開発問題なども発生した時代。日本自然保護協会は1960年に財団法人化。1966年には、多くの自然破壊に対し「自然保護憲章」の草案の作成が開始されます。

1970年代

初代環境庁長官・大石武一氏の尾瀬視察の様子(写真右)

1972年、国連環境会議がストックホルムで開催。この流れの中、ラムサール条約、世界遺産条約、ワシントン条約といった自然保護条約が続々と誕生。環境分野における国際協調の時代の到来です。国内では71年、環境庁が設立。一方、日本列島改造論が象徴する大規模開発も頻発。日本自然保護協会は78年、自然観察指導員制度をスタートさせました。

1980年代

IUCNが’80年に打ち出した自然保護戦略で「持続可能な開発」という言葉が誕生。自然保護と開発の両立を考える時代への突入です。一方、国内ではリゾート法が制定され、各地で大規模開発が。白神山地や知床など国有林の原生林伐採問題も勃発。これらに歯止めをかけようと、日本自然保護協会ではイヌワシやブナをシンボルに、森林保全活動を進めました。

1990年代

1992年にリオで開催された地球サミットで、気候変動枠組条約と生物多様性条約の署名が開始され、国際的な自然保護の動きが急速に加速。日本はバブル崩壊や阪神・淡路大震災の激動のさなか、’92年に世界遺産条約、’93年に生物多様性条約を批准。また、種の保存法、環境アセスメント法が制定されるなど、環境法の基本が生まれた時代です。

2000年代

2004年、インド太平洋地震を契機に自然保護が災害リスク緩和に繋がることが認識されました。日本では2001年に環境省が発足し、自然再生推進法、特定外来生物法、エコツーリズム推進法、生物多様性基本法など、様々な環境法が誕生。また、’05年の愛・地球博をきっかけに里山の生物多様性の重要性が注目されました。

2010年代

2010年、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が名古屋で開催。2015年にはSDGsが生まれ、省庁や企業の自然保護への意識が急速に高まった時代。2011年には東日本大震災が発生。日本自然保護協会は生態系を活かした防災減災(Eco-DRR)を訴えたり、再エネの推進に沿った国立公園内の地熱開発への反対運動を進めました。

2020年代

2021年のG7首脳レベル、そして’22年の昆明・モントリオール生物多様性枠組により30 by 30やネイチャーポジティブという世界目標が掲げられました。気候変動による自然災害の増大と海洋の酸性化・高水温化が深刻化する一方、拙速な再生エネ発電施設建設による自然破壊などが問題化。人口減少による里山の管理放棄や、海ゴミ問題など、新たな課題が差し迫る複合危機の時代です。

これからも、
豊かな自然とともにある
暮らしを守るために、
日本自然保護協会は
全国各地の仲間とともに
活動していきます。