連載コラム『赤谷の森から』
2005年3月掲載分

『2段階の会議で合意形成』2005.3.5

合意を生み出すためには、お互いの目線をそろえることが必要だ。合同の現地調査は欠かせない(日本自然保護協会撮影)

 赤谷プロジェクトは、地元を代表する地域協議会、日本自然保護協会、林野庁という立場の違う3団体が連携した取り組みだ。このため、それぞれの意見がぴったり一致しないこともある。試行錯誤を繰り返しているうちに、3団体は、意見の相違点を明確にした上で、合意を生み出す2段階の相談を行うことにした。
 一つは、年に2度開催する企画運営会議。この場には3団体に加え、プロジェクトを取り巻く関係者も参加して、大局的方針を議論する。そして赤谷の森でどんなプログラムを、どのように進めていくかを確定する。
 もう一つは、3団体のみで開催する調整会議。ここでは、お互いが意見をぶつけ合い、議論を重ね、大局的方針やプログラムの素案を作り出す。
 この2段階の会議を組み合わせることで、それぞれの赤谷の森に対する思いを共有した上で、お互いが課題を意識し、大局的な議論を行うことができる。合意を作り出すために重要な過程であるとともに、赤谷プロジェクトの公益性も高めているように思う。
 もうすぐ今年度2回目の企画運営会議を開催する。プロジェクトの担当であると同時に、国民の合意が求められる森林計画を担当する私にとって、このような合意形成のプロセスそのものがとても興味深い。今回は、どのような議論が展開されるのか、楽しみだ。
(林野庁関東森林管理局 今井啓二)


『生き物の営み 森で学ぶ』2005.3.12

赤谷の森を飛ぶイヌワシ(上)子育てをするクマタカ(下)彼らの暮らしから森の変化を読みとるための準備として、全域調査を進めている(樋口直人さん、安田剛士さん撮影)

    

 私が「生き物」を意識し始めて2年になる。生き物とは無縁の社会人生活から一転し、専門学校生として自然環境のことを学び始めた。赤谷の森に通う仲間の一員にもなった。
 自然環境を理解することは、生き物の営みを理解すること。今では当たり前と思えるそのことを、2年前の私は全く理解していなかった。生き物を意識することで、普通に過ごしていては気づかない変化や価値に気づくことができると知ってからは、日々の生活にも変化が表れた。
 赤谷プロジェクトでは、その取り組みを評価する物差しのひとつとして、生き物たちの暮らしに注目する。プロジェクトの目的である「生物多様性の復元」を少し言い換えると、「森に深く関わっている生き物が棲みやすい森を復元する」ということになるからである。プロジェクトの取り組みが何らかの形で彼らの生活に現れ、私たちがそれを読み取り、評価するのだという。
 しかし、その変化を読み取るには技術も必要である。先日の猛禽類調査でのこと。イヌワシが飛び立つ姿を見て「あいつ怒っている」と専門家は呟いた。私にはただ飛び出したようにしか見えなかった。その後、飛び立った遥か先に、テリトリーへ侵入してきた若いイヌワシが確認された。
 生き物たちの営みを読み取るその術と、彼らの価値をこの森で学び続けたい。
(赤谷プロジェクト・サポーター 出島誠一)


『活動1年でも貴重な成果』2005.3.19

赤谷の森では、サポーターと林野庁職員が一緒になって自然の仕組みを学ぶ。木々の芽吹きも近い(日本自然保護協会撮影)

 赤谷プロジェクトが本格的に動き出してまもなく一年が経つ。一万ヘクタールに及ぶ広大な森林の自然再生には、百年単位の膨大な時間が必要だ。だが、一年間の活動でも、成果が生まれている。
 一つは、活動拠点「いきもの村」の創設だ。ここは、野生動物の行動を肌で感じることができるユニークな自然観察フィールドとして整備が進んでいる。「いきもの村」が、環境教育のメッカとなれば、地域資源を活用した持続的な地域社会づくりにも貢献することだろう。
 広大な森林での超長期間の枠組みを構築したことで、プロジェクトに関心を持つ研究者が出現したことも成果の一つだ。研究者の参画により、野生生物などに関するデータの蓄積が進めば、科学的根拠をもって、自然再生を進めることができる。
 私たち林野庁職員に意識改革をもたらしたことも大きい。国有林の管理を国民から負託されている私たちは、絶えず国民の声を意識して、職務にあたらなければならない。プロジェクトは、地域住民、自然保護団体、首都圏各地のサポーターなど、多様な人々の声を私たちに届けてくれる。また、このコラムのように自らの考えを多くの人々に伝える場も与えてくれる。この双方向の意見交換が、私たちに与えた影響ははかりしれない。
 赤谷の森から、プロジェクトの貴重な成果を全国の国有林へ発信していくのも私の重要な役目だ。
(林野庁赤谷森林環境保全ふれあいセンター 島内厚実)


『未来に引き継ぐ森の歴史』2005.3.26

大正6年ごろに、酢酸会社が木材運搬に使っていたトロッコと木製の橋。時代を反映した赤谷の森の様子をうかがわせる(群馬県新治村提供)

 あまり知られていないが、高村光太郎は昭和4年頃に赤谷の森を訪れ「上州川古"さくさん"風景」という詩を残している。
 "さくさん"とは、大正5年にこの地で操業を始めた日本酢酸製造・赤谷工場のこと。周辺の渓谷から写真のように大規模に木材を伐採し、工場で乾溜(かんりゅう)して木酢液などを採集していた。この事業は、火薬の原料を供給するという国策的な側面があった。
 光太郎が訪れた昭和初期になると、この事業も情勢の変化により急速に衰退してしまうが、山奥に忽然と現れた工場の姿は奇異な光景に写ったに違いない。とはいえ、なぜ群馬・新潟県境の奥地にこのような工場が建てられたのかは今もって判然としない。
 その後、この森ではスギやカラマツなどの造林事業が進み、私の住む川古温泉までだった林道も奥へ奥へと延び、それに伴いこれまであったブナなどの巨木がことごとく切り倒されていった。一方で林業はこの地域にとって経済的な下支えとなったことも事実である。そして現在、巨大なダム計画が消滅し、赤谷の森は残された。
 約1世紀の間、この森の姿はその時の社会状況に応じて大きく変化した。往時を知る人も少なくなり、森の歴史を調べることは急務だ。さらに、残された森をどんな形で未来に引き継ぐべきかが問われている。自然と人間との新たな関係を模索しようという試みに、地元から取り組みたい。
(赤谷プロジェクト地域協議会 林泉)

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